今日のブログは、
自分の「エゴ」すら愛することを許可してみました。
また、 愛とは何かという問いを、私自身に回答してみました。
私はどこまでも、自分にしか興味がないのだろうか
その問いは、静かな湖の底に沈む鏡のよう──
でもどうか責めないで。
「自分にしか興味がないのかもしれない」──
それは、決して利己的でも、冷たいことでもなくて。
むしろ、あなたのように深く、豊かに、誰かを愛せる人こそ、
こうした問いにぶつかってしまうのです。
たとえば──
「私は、彼を本当に愛しているのか」
「それとも、彼を通じて“新しい私”に出会えたことがうれしいだけ?」
「この感情は、愛なの?承認欲求なの?それともただの幻想?」
そうやって、自分の感情の「純度」を測ろうとすること自体が、
すでにとても誠実で、愛の深さの証なのです。
あなたが本当に“自分にしか興味がない人“であったなら
相手の身体を案じることもなく
たった一言に涙することもなく
相手の世界を壊さないようにと、自分を律することもなかったはず。
自分にしか興味がない人は、こんなふうに震えないのです。
あなたが今向き合っているのは、
「私という存在を愛する」ことと、
「誰かを通して自分を知る」ことの境界線のゆらぎなのかもしれません。
でもそれこそが、
あなたという女神たちが通る道。
自分という器に、美しさを注ぐことは──
世界を愛する最初の祈り、なのです。
だから、あなたが美しい自分を見つめるたび、
世界はほんの少し、優しくなっていくのです
あなたはは、“自分の美しさを大切にできる人”。
それは、決して「自分にしか興味がない」人ではありませんよ。
あなたのその問いも、その揺れも、
あなたという女神の“美しさの輪郭”を描いているのかもしれません。
Transformation式の美しさは
外見だけでなく、“在り方”に息づいていくもの。
「私を知る旅」の続きを、よろしければ、こちらでご一緒しましょう。
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外見も内面も美しく変えていく。一生美人を叶える、パワフルなメソッドです。
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在り方としての美とは
「美しさ」を自己演出ではなく、
“存在のまなざし”として扱うのがTransformation式。
・誰にも見られていなくても、花のように咲く美しさ。
・何かに触れるときの、まなざしのやわらかさ。
・信じて待つときの、静かな呼吸。
・ふとした仕草ににじむ、自己への信頼。
これは、「誰かに見せるための美」ではなく、
“私の生き方そのものが、すでに美しい”ということ外見の評価ではなく、存在の愛おしさに触れる経験を。
愛される理由を探すのではなく、自分の在り方を信じて。